絵本昭和の流行歌 番外編 其の参

待てど暮らせど来ぬ人を
宵待草のやるせなさ 
今宵は月も出ぬさうな

さて、「宵待草」です。
竹久夢二のあれです。
おなじみのあの歌ですね。

夢二がこの作品の元になる詩をまず雑誌に発表したのは明治45年の事です。
翌大正2年に今の三行の形の詩が掲載された詩集「どんたく」が出版されます。

作曲したのは、多 忠亮(おおのただすけ)というバイオリン奏者です。
曲はすでに「どんたく」出版の大正2年には作られていたと言われています。
世の中に発表されたのは大正6年の演奏公演でした。
その翌大正7年、「セノオ楽譜」より夢二の装丁による楽譜が出版されます。
たちまち大人気となり、一世を風靡した、とされています。

楽譜の出版で歌が流行るとはどういう状況なのか、現代の我々にはピンときませんね。
レコードや蓄音機はすでに存在しておりましたが、もちろん一般家庭に普及していたとはいえません、ラジオ放送が始まるのはまだ7年ほど先です。
つまりは人の口と耳から広がっていったという事でしょうかね。
まあそのあたりの詳しい事に興味のある人は、ええと自分で調べてね。

さて最初のレコードは昭和3年になります。
藤原義江によって日本ビクター蓄音機から出されました。
昭和3年といえば我が国におけるレコードの国産プレス元年ですから、すでに流行歌であった宵待草にとっては、満を持した音源であったといえるかもしれません。

藤原義江という人はご存知の通り本朝における第一番の声楽家であります。
一番最初の、でもいいし、一番高名なる、でもいいと思います。
念のために記しますが、ふじわらよしえという名の男性です。
英日ハーフの「我等がテナー」であります。

さてその後、昭和17年の李香蘭盤まで、戦前だけで15年間に少なくとも18枚のレコードが出されています。
大競作にして大流行にして国民的愛唱歌となり、よって今日の我々をしてもなんとなく聴いた事あり的な歌となっているのでしょう。

そんな中で今回は、昭和10年関屋敏子盤です。
え、また関屋敏子?
そうです、関屋女史31歳のソプラノでございます。

夢二の三行の短い歌詞が間奏を挟んで二度繰り返されます。
二度目の冒頭で女史またしても譜面を無視して高音を伸ばしております。
このあたりが本領発揮にして聴きどころでございます。

権利関係は、今回は大丈夫だと思うのですが、各人の没年を記しておきます。
竹久夢二 1934年9月
多 忠亮 1929年12月
関屋敏子 1941年11月
発売は1935年 日本ビクター蓄音機(株)の赤盤でございます。

宵待草とは、正しくは待宵草(マツヨイグサ)という花で、夕方から黄色い花を咲かせ、朝になると赤くしぼんでしまうそうです。

画像に関しては、竹下夢二のイメージを崩さず且つ捕われずと心がけて描いてみました。

 

>HOME